文政六未三月
2010年01月21日
三木市別所町の旧道を歩いていて
左 三木 ありま
と刻まれた石標をみつけました。

右側面には建立した年・目的でしょう
文政六未三月?国西国供養 こう刻んであります。
(文政六未=1823年ヒツジ年)
左側面にも □ □ から九里(?) (□ は読めません)と刻んであって、
おそらく□ □(地名)からの距離なんでしょう。
ちょっと不思議なのは、この旧道をまっすぐ行くと確かに三木に到着しますが
「ありま」が有馬温泉だとしたら、方角違いの思いがすることです。
少し調べてみました。
左 三木 ありま
と刻まれた石標をみつけました。
文政六未三月?国西国供養 こう刻んであります。
(文政六未=1823年ヒツジ年)
左側面にも □ □ から九里(?) (□ は読めません)と刻んであって、
おそらく□ □(地名)からの距離なんでしょう。
ちょっと不思議なのは、この旧道をまっすぐ行くと確かに三木に到着しますが
「ありま」が有馬温泉だとしたら、方角違いの思いがすることです。
少し調べてみました。
この旧道は昔、姫路から京都への最短ルート(湯の山街道)として有名でした。
それは、羽柴秀吉が三木城を攻める(三木合戦)折に、有馬温泉から三木までの街道を整備したことによります。
(姫路~志方~国包の渡し~三木~有馬~京都のルート)
思わぬところで郷土の歴史を見つけて嬉しくって、今朝の記事にしてみました。
石標を見つけてのはここ
Posted by おっとしぃ at 05:26│Comments(2)
│名所とか遺跡とか
この記事へのコメント
秀吉という人はそんなことまで(街道整備)してたんですね
しりませんでした。
本能寺の時にはこの道を駆けて帰ったのかな?
いや あのときは舟で帰ったっけ?
しりませんでした。
本能寺の時にはこの道を駆けて帰ったのかな?
いや あのときは舟で帰ったっけ?
Posted by なつばて at 2010年01月22日 00:09
◆ なつばて さん
織田軍の特徴は神出鬼没。それを実行できるのは、ひとえに土木作業(街道整備)のおかげです。
三木合戦は約二年も続いて、その間何度も秀吉は有馬温泉に湯治に行っています。
いまも有馬温泉に「太閤」を冠した湯があるのはそれにちなんでいます。
織田軍の特徴は神出鬼没。それを実行できるのは、ひとえに土木作業(街道整備)のおかげです。
三木合戦は約二年も続いて、その間何度も秀吉は有馬温泉に湯治に行っています。
いまも有馬温泉に「太閤」を冠した湯があるのはそれにちなんでいます。
Posted by おっとしぃ
at 2010年01月22日 04:49
